苗字調査における
電話帳の使い方と
森岡浩氏への批判
 当サイトは、基本的に電話帳を第一の資料としている。しかし、森岡浩氏など、実際にじかに電話帳を用いて調べもしないままに、電話帳を用いた苗字調査を批判する人もいる。下記の森岡氏の文章(この文章の執筆時には確かにあったが、今ではなぜかウェブ上から姿を消しており、アーカイブから入手した。)など、完璧なデータなどそもそもありえないの以上、書いていること自体に間違いは無く、こういう点に気をつけて使おうということなら大いに納得できるのだが、事実上電話帳など使うなという結論になってしまっている。また、電話帳にあれば必ず実在し、無ければ実在しないなどと誰が主張しているのだろうか? 相手の言うことを批判しやすいように作り変えるというのは、まともな論陣を張る人がすることではないし、第一いるかどうかも分からない人を批判してどんな説得力があるのだろうか。

 ここで森岡氏が取り上げた事例は、電話帳で調べた体験上、電話帳を利用すること自体を否定するほど多いものとは思えない。一部の事例を理由にして、比類も無いほど膨大なデータ量を持つ電話帳を用いないとすれば、実証的な態度とはとてもいえない。そもそもどんなデータにも完璧ということはありえない。あればそれを丸写しすればいいだけで、研究の必要も生じない。少しでも問題のあるデータは一切使わないなどと言っていては、どんな学問も成立しない。データというものは、不完全なものであるのが常であり、その不完全さを克服していく作業を研究というのである。電話帳が万能でないことは言うまでもなく、当サイトも電話帳を「信じている」わけではないが、きわめて有用なデータとして使いたいと思っている。

 「名字のヒミツ」という著書の中では、森岡氏は「ただし、これらを踏まえた上で使用する分については、電話帳はたいへん便利な資料であることは間違いない。今のところ、これ以上有効な資料は登場しそうにない。あるとすれば、国勢調査の結果の公開であろう」と書いている。しかし、森岡氏が電話帳を十分に活用しているとは思えない。同書のp.89には「佐藤さんの少ない西日本でも、広島・徳島・大分の三県だけは佐藤さんが多い」とあるが、岡山が抜けているのは理解に苦しむ。また、西日本の佐藤は東日本よりは少ないが、どこでも珍しいとまでは言えない。p.124には「日本一「神野」の集中している愛媛ではほとんどが「じんの」とあるが、愛媛と並んで「神野」が多く、読み方も「じんの」が圧倒的な愛知には全く触れておらず、中途半端にしか電話帳を用いていない印象を受ける。ウェブ検索にいたっては全く活用していないので、「角田」の「つのだ」に次ぐ多い読み方を「かくだ」としているが、これは「かくた」とすべきだろう。なお、「国勢調査の結果の公開」とは苗字別の統計をとる意思が国に無ければいつまでも利用できない。公開されたとしても、調査票に読み方を記す欄は無いので、読みの資料としては全く役立たない。

 芸名やペンネームで電話帳に載せている人は、それによって生活も成り立っている人が多いので、フルネームでウェブ検索すると出てくることが多い。そこに本名が書いてあることも多いのですぐに本名ではないことが分かる。特に電話帳にゼロである苗字(?)をペンネームとしている場合は、ウェブ検索で本名でないことが分かることが多い。本名以外で電話帳に載せている人の割合というものは極めて小さいのだが、森岡氏はそれをひどく過大評価している。日本の苗字は、一握りの全国的な苗字を除けば、特定の地域に固まって存在している。同じ地域でたくさんの人が同じペンネームや芸名を名のる可能性も必要性も無い。

 「電話帳には個人のヨミは載っていません。各ページの肩に書いてある小見出しから類推することしかできません」という文章にはびっくりした。確かに電話帳には各ページの肩にある見出し以外、読み方を明示してはいない。しかし、電話帳は人名を五十音順に並べており、その掲載位置で読み方が特定できることのほうがずっと多いのである。電話帳で特定できなかった場合にも絞り込みはできるのだから、ウェブ検索で絞り込まれた読み込まれたの中から本名と思われる個人を探せば特定は可能である。明示されたものが無いからお手上げでそれを補う方法を考えないのは怠慢というほかはない。掲載位置から読みを推理する楽しみが分からないのでは研究者の名に値しない。

 電話帳で姓名を切り間違える心配はまず無い。姓名の間にスペースを入れている所も多く、入れていないところでも、フルネームを五十音順に並べているのではなく、まず苗字単位でまとめているので、姓名の切れ目は明瞭である。同じ森重敏でも「もり・しげとし」と「もりしげ・さとし」が続いて載るようなことはなく、その間に森井・森岡・森川などといった苗字が続いている。森岡氏の主張は、自分で電話帳を調べた体験をもとにしたものとは考えられない。電子電話帳が姓名の切り違いをする例はあるが、これは掲載位置への注意が足りないか、データをばらばらにしてしまったために掲載位置を手がかりにすることが出来なかったためだろう。電子電話帳の誤りは紙の電話帳にあたってみれば、すぐに分かる。

 森岡氏の書いた「名字のヒミツ」の中には、とんでもない間違いがあり、氏の苗字についての基本的な知識を疑ったことがある。

 「現在でも難読の名字の読み方を、平易なものに変えることは法的に可能(逆はできない)。従って、難読名字も減る傾向にある。」(p.129)

 これが間違いであることについては、元市民課職員による文章が簡潔なので戸籍の実例とともに御参照願いたい。ここでは、下の名前について書かれているが、苗字についても法的な扱いは全く同じである。同様の内容の文章は、GoogleやYahoo!で「戸籍 読み方」で検索すればたくさん出てくる。第一、日本の戸籍に読み方が無いことは、何も専門的な知識ではなく、誰でも自分の戸籍を取り寄せてみれば分かることである。読み方などどこにも書いていないのだから、法的な手続きなど、取りようが無いのである。

 森岡氏には幽霊苗字や幽霊読みを排除しようという問題意識がある分だけ、聞きかじった苗字を無批判にどんどん著作に載せた丹羽基二氏よりはましだとも言えるが、一貫した方法論が無く、電話帳の利用にあたっても無原則なので、誤りを犯すことがしばしばである。本気で幽霊苗字を排除したいのなら、その最大の武器である電話帳の利用を否定することは自殺行為というほかはない。

 森岡浩氏のあっと驚く幽霊名字の実例で幽霊苗字とされている「大長光」「小長光」は明らかに実在している。「西周」は「にしあまね」は確かに個人のフルネームを苗字と誤認した幽霊読みだが、「さいしゅう」という読みで実在している。「甲」も「しん」とは読めないが、「かぶと」という読み方でなら実在している。幽霊苗字と幽霊読みとは、きっちり区別して記してほしいところである。

 大長光さんや小長光さんや千葉県茂原市ではありふれた苗字である西周さんが知ったなら、幽霊ではないので、自分の苗字が実在しないと言っている人がいることを知ったら怒るであろう。「大長光」でGoogle検索してみると、実在の大長光さんが並ぶ中に「幽霊名字の実例」というページが出てくるのだから滑稽である。これも、森岡氏の主たる関心が苗字の過去にあり、現在の苗字の真贋を見分ける方法論を持っていないことの表れと思う。森岡氏の著書の中で、実在の苗字の中にも奇抜なものがあることを紹介したあとで、「幽霊名字を見分ける方法があったら誰か教えてくれ」と書いているのを見たことがある。自分の腕を切ってしまったがまの油売りを連想してしまった。森岡氏に一貫した方法論が無い以上、幽霊苗字をばらまく人と森岡氏の違いは、根拠もなしにそれを信じているのか、根拠もなしに信じないのかの違いにすぎない。


 
森岡氏には実証不可能なことを、さも確かなものであるかのように書く悪い癖がある。「名字のヒミツ」の中には「珍しい名字の人ほど、電話帳に載せたがらない」という実証不可能な記述がある。そういう人もいるかも知れないが、それが一般的だという根拠は一体何なのだろうか? 電話帳に基づいた本データベースには珍しい苗字が満載である。このような考えは実証をともなわない単なる思い込みというか、思い付きに過ぎない。苗字が珍しいかどうかによって電話帳の掲載に差が出るということはまず無いと断じてよい。

 最近、プライバシー保護の風潮が強まり、電話帳への掲載率が下がっているが、そのために電話帳から姿を消す苗字は、全国で1~2件程度のごく珍しい苗字に多いだろう。3件以上の苗字なら、3件がそろって掲載をやめるということは起こりにくい。それは、「珍しい苗字の人ほど電話帳に載せたがらない」からではなく、もともと絶対数が少ないからという当たり前の理由によるのである。

 「珍しい苗字の人ほど電話帳に載せたがらない」という命題を実証したいのなら、収録数が電話帳に匹敵し、かつ電話帳とは別ルートで人名を収めているデータを探し出して、電話帳との比較対照をしなければならないが、そういうデータは現実には存在しない。第一、どの苗字が苗字が珍しいか自体、客観的には電話帳によるほか判断ができないのである。

 また、電話帳は年々掲載率が下がっているということから、森岡氏は電話帳を用いるなら1990年代のものを用いるべきだなどと言っている。確かに電話帳の掲載数は1990年代がピークだったのだから、よほど稀な苗字を調べるなら見つかる可能性が高いし、掲載数が多いに越したことは無い。しかし、それほど稀でない苗字なら、最新のものでも十分に役に立つのだから、1990年代のものでなければならないという主張は成り立たない。初めから1990年代のものに当たれば効率がいいということは言えるが、時期によって電話帳の信憑性に差があるなどということは無い。

 古い電話帳は、地元のものなら揃えている図書館が各地にあるが、全国のものを揃えているのは東京の国会図書館しかない。首都圏在住でない人には、調べたくても調べる機会がなかなか得られないのである。最新の電話帳なら、全国のものを揃えている図書館は珍しくないので誰でも調べられる。それで確認できなかった苗字のみ古い電話帳に当たればいいのであり、1990年代のもの以外資料にできないなどということはない。なお、スマホ時代に固定電話自体が減り、個人情報保護の観点から電話帳の掲載率も下がっているので、苗字研究に役立つ個人名電話帳の発行は、残念ながら東西のNTTとも間もなく廃止されることになった。

 苗字辞典の類は、長い間、家系辞典のようなものが主であった。古いことは学者でなければ調べられないことがあるのは確かだろう。まず古文書が読めなければ話にならないし、個々の古文書の信憑性を判断するのにも専門的な知識が必要となる。しかし、現代の苗字の読み方や、人口、分布なら、学者でなければ調べられないということは無い。現在にも過去にも実在が確かめられない幽霊名字がはびこる現状では、誰にでも確認の容易なデータのほうが、こういう現状に歯止めをかける上で有効であることを忘れてはならない。学者の良し悪しを見分けられない素人にこそ、「信じる」「信じない」などという堂々巡りの考えをしているより、苗字の実在と読みの調べ方を参照の上、まず自分で調べてみることを勧めたい。


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