丹羽基二氏と
日本苗字大辞典への疑問

 日本の苗字を最も多く集めたと称する丹羽基二氏の日本苗字大辞典という本がある。現代の苗字についてきちんとした方法で調べる人がいないため、著者には一定の権威があるらしいのだが、まさに幽霊苗字(実在がきわめて疑わしい苗字)の宝庫(?)という感がある。出版元の芳文館がそれに基づく苗字、読めるかな?クイズなるものをウェブに載せているのだが、このクイズで漢字表記と読みの双方の実在が電話帳やウェブ検索で確認できるものは1割に満たないありさまである。丹羽氏の辞典は、これと大同小異の日外アソシエーツの苗字8万読み方辞典とともに、公共の図書館や大学の図書館にまでよく鎮座しており、それが他の苗字辞典や苗字本、苗字サイトの種本となっている。


 講談社から出ている『難読珍読苗字の地図帳』という丹羽氏の著書を紹介するページの表紙にある苗字だけでも、鳴矢木、三五月、颪、六月一日(四月一日、八月一日ならある)、瓜破、左右口(左右田ならある)、右左口、三方一所(三分一所ならある)、十二月田は、実在がまったく確かめられない。

「飲酒盃」は一応実在するが、これは「飯酒盃(いさはい)」の誤記が定着した稀な例で、まず「飯酒盃」を紹介すべきだろう。

 丹羽氏は文献学者であり、今でこそ存在しないが過去に実在した苗字ではないかと思っている人がよくいる。過去の実在は現在の実在よりさらに証明が難しいだろうが、そのような証明がなされている形跡もない。それに、無くなった苗字が何やら面白げな苗字ばかりであるのも不自然である。

 牛屎(うしくそ)、荊津(おどろつ)、正親町三条(おおぎまちさんじょう)などは、かつて確かに実在していたが、現在は実在しない。しかし、過去における実在の証明はなされている。このようなことが丹羽氏の辞典にあって現存が確かめられない苗字の一つ一つについて厳密に行われているという話は聞かない。

 「日本苗字大辞典」をもとに、丹羽氏は日本の苗字は30万種と唱えているが、これは怪しい。現在の電話帳に載っている苗字は、読み方を無視して漢字表記で数えると約10万種である。もちろん、電話帳に載っていない苗字はあるはずだが、稀少な苗字ばかりであることも確かであり、あるとしても1万種ほどだろう。丹羽氏のいう30万種というのは、漢字表記と読みの双方が一致して1種と数えての数字だが、一つの漢字表記に対して平均して3つもの読み方があるというのは信じがたい。なぜなら日本の苗字の多くは、それほどまでに読み方が分化するほどの人数の無い稀少な苗字だからである。字体の違いのある苗字を別々に数えたわけでもない。巻頭の「序に代えて」という文章の中に、「苗字の中に旧字体、俗字体、筆写体、国字その他の不明な文字もある。呼称の中に発音から生ずる微妙な違い、清音、濁音の不鮮明なものもある。これらはできる限り原字体を尊重した。」とあるからである。丹羽氏の数え方によっても、日本の苗字は30万種も無く、20万種に行くかどうかも怪しく、15万種前後というのが妥当なところだろうという印象を私は持っている。

 苗字辞典の類は、読み方についての検証もしていない。「あるかも知れない」「あっても不思議でない」という程度で小耳に挟んだ読み方や、適当に思いついた読み方を検証もせずに載せることが多い。こういった読み方を加えていけば、30万種に達するのも容易なことだろう。「一(にのまえ)」という実在が確認できない読みは、この辞典にものっているが、漢字別の巻の「一」の前には、0と1という算用数字が「0福部(いおきべ)」「1(すすむ、たていち」」という例とともに載っていたが、算用数字が普及したのは、人々が苗字を届け出たときよりずっとあとのことである。「十八女」と漢字で書く苗字は、全国の電話帳にもゼロで確認はできないが、この辞典はこれに対して、「いなめ、さかり、じゅうはちにょ、そやきみ、そやぎみ、わかいそ、わかいろ、わかぎみ」と、八種類もの読みが添えている。徳島県阿南市にこれで「さかり」と読む地名があることは確かだが、地名にあるからといって苗字にもあるとはいえない。ほかの読み方は一体どこから持ってきたのだろうか?

 幽霊苗字であることの実証は難しいなどという人がよくいる。つまり不在の証明をしろというのだが、こんな無茶な要求がなされるのは苗字以外の分野では聞いたことが無い。存在の証明はたった一つ、確かな実例を挙げれば済む。しかし、不在の証明はすべての事例を集めた資料が無い限り、原理的には不可能ということになる。不在の証明を求めるのは、科学を知らない人である。
 しかし、存在の証明が出来ない限りは存在しないものとするというのは当然のことだが、不在の証明が出来ない限りは存在するものとするなどという無茶な理屈が罷り通っているのが苗字研究の現状である。すべての事例を集めた資料が、あることはむしろ珍しい。だからこそ、そこに研究の必要が生じてくる。この地球上にある生物種の数がどれぐらいになるのかは誰にも分からず、毎年おびただしい数の新種が発見されている。しかし、新種として認められるには生体や標本、少なくとも映像などの証拠が不可欠であり、たとえば見たという人の証言だけを根拠にし、不在が証明できないのだから、ツチノコを新種の蛇として認めろなどと要求したところで、学界から相手にされないことは言うまでも無い。

 苗字の場合、証拠となるものは苗字そのものを集めた辞典ではなく、その苗字を名のって生活している人の存在を証拠立てる名簿の類である。そのような名簿として、抜群な収録数を持っているのが電話帳である。むろん、電話帳に載っていても、芸名などの本名ではなかったり、電話帳の誤記だったり、姓名の切り違いだったりすることもあるので、その点の検証は必要だが、たいていの場合は、実在の大きな証拠となる。

 苗字辞典の信奉者には電話帳の資料としての価値にいろいろとけちをつける人が多い。その一方で辞典に掲載されていれば根拠も無しに信じるのだから、その間の矛盾に自分で気がつかないのが不思議でならない。電話帳にけちをつけるほどの懐疑精神があるのなら、電話帳ほどの「不確か」な根拠すらない苗字辞典をなぜ信じられるのか、不思議でならない。

 もちろん、電話帳に無いからといって、その苗字は実在しないとは言えない。ただ、二つの点だけは確かである。一つめはその苗字が実在するとしても極めて稀な苗字であること、二つめは他の手段で実在の検証ができない限り、辞典などに載せて公開してはいけない苗字であるということである。

 苗字辞典への記載には、一貫した実在の検証法が必要である。そして、誰もが同じ検証法によって、苗字辞典の信憑性を自ら判断できるようでなければならないのである。いま市中に出回る苗字辞典の類は残念ながらこのような理想からほど遠い怪しげなものが大半を占めている。

 当サイトが用いる検証法については、苗字の実在と読みの調べ方を、電話帳の資料的価値については、苗字調査における電話帳の使い方と森岡浩氏への批判を参照されたい
 
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