江戸時代の庶民に
苗字はなかったか?

 「江戸時代の庶民には苗字がなかった」と思い込んでいる人は多い。歴史学者の間の常識はこれと異なり、「苗字が無かった」のではなく、「江戸時代の庶民は苗字を公称できなかった」というものである。苗字を公称できなかったということを分かりやすく言うと、「江戸時代の庶民の大半は苗字を持ち、直接お上(=武士)を相手にするとき以外は、それを自由に名のっていた」ということになる。そして、庶民がお上を相手にするということは、その人生の中で、そんなにしょっちゅうあることではなかった。

 では、公称はできなくても苗字を持っていた庶民の割合は何%ぐらいだろうか。100%だとも%だとも言えないことは自明のことであり、問題は、持っている人と持っていない人のどちらが多く、普通だったかということである。一般には庶民が苗字を持つことは例外的なことだと考えられているが、これは、苗字を持つことと公称することを混同したために生じた誤解である。実際には持たないほうが例外的だったといえるのに、持っているほうが例外的だという思い込みが一般に広まっているのだとしたら、そんな状態がいつまでも続いていいものだとは思えない。

 国民の全員が苗字を名のることが法的に定められ、それにともなって戸籍制度が出来上がったのは、明治の初めのころだった。当時はまだ内閣というものが無く、法令は「太政官布告」という形で出された。このうち、苗字について出された布告の条文を読むと、大半の庶民が苗字を持っていたことが、武士の間でも庶民の間でも常識となっていたことが分かる。明治3(1870)年の布告608号(平民苗字許可令)は、「自今平民苗字被差許候事(これから平民は苗字を名のってもかまわない)」という簡単この上ないものであった。しかし、苗字をなのるかどうかは自由ということだが、長く苗字の公称を許されなかった庶民は、お上以外に対しては今までどおりに名のっていればいいのだし、お上に対して進んで苗字を名のろうとはしなかった。そこに徴兵や徴税のためという意図を読み取ったからである。 

 庶民が苗字を名のろうとしないことに業を煮やした明治政府は、5年後の明治8(1875)年には、布告22号(平民苗字必称義務令)を出して、国民皆姓を義務づけた。その条文も、許可令よりは長いが、「平民苗字被差許候旨明治三年九月布告候處自今苗字相唱可申尤祖先以来苗字不分明ノ向ハ新タニ苗字を設ケ候様可致此旨布告候事(平民は苗字を名のってもかまわないと明治3年9月に布告したが、これからは苗字を唱えべきことを申し付ける。ただし祖先以来苗字が分からないものは、新たに苗字を設けるように、このむね布告する」という簡単なものであった。新たに苗字を設けた事例もあったが、その例は全体から見れば少数派だったということを、この条文自体が物語っている。

 明治に村を挙げて苗字を新設した所として、愛媛県の愛南町の網代と石川県の能美市の下開発町がメディアなどで取り上げられることがある。網代では、地域のリーダーである浦和盛三郎の発案で住民が魚や農作物、漁具に因む苗字を届け出、今も住民の7割がそういう苗字を名のっており、下開発町では庄屋だった杉本家に近い家が「中」と名のり、あとは杉本家からの方角で「東(ひがし)」「西」「南」「北」と名のることした。今も下開発町の住民は、少数の移住者を除き、「杉本、中、東、西、南、北」のいずれかの苗字を名のっている。しかし、こういった事例は、面白がって話題にされること自体が、珍しい事例であることを物語っている。 

 「明治新姓」という言葉がある。普通は、明治以前に同じ苗字がない場合に、明治になって新しくつくられた苗字という意味で用いられるのだが、明治以前に同じ苗字があっても、江戸時代の庶民に苗字が無かったという考えに従えば、今の日本人の苗字のほとんどは、「明治新姓」だということになる。明治の初期の戸籍には、「平民」「士族」等の身分が記してあったが、苗字が公称できた「士族」は下級武士を別扱いした「卒族」を含めても6%程度しかなく、「華族」に至っては0.1%にも届かない少数派だったからである。しかし、明治になって新しく苗字をつけたという人はそんなに多いものではなく、公称を認められないまま代々伝わってきた苗字をそのまま届け出た人のほうがずっと多かったと考えれば、全国民に苗字をつけた戸籍が短期間に完成したことも容易に説明できる。

 苗字に関する明治の布告は、きわめて簡単なもので、こういう苗字を名のれとか、こういう苗字を名のってはいけないなどという細かい指示が出た形跡はない。大半の人口が思い思いの苗字を名のったのだとしたら、多数の人口が少数の苗字に集中するという、現在のような苗字の分布はありえなかっただろう。いま多い苗字は、明治の時点で既に多かったのである。たとえば、「鈴木」という苗字は東日本に多く、全国でも2番目に多い苗字だが、もともと熊野神社の神官の苗字であり、神道と仏教の融合を推し進めた熊野信仰とともに広まったものであるが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初年に、熊野信仰と密接な関係がある鈴木姓を積極的に名のれという指示が出たとは思えない。 

 明治から昭和にかけて編集者、著述家として知られた石井研堂は、『明治事物起源』という著作の中で次のような話を紹介している。当時研堂の父は、町の指導的な立場にあったが、苗字を決めなくてはならなくなって困った町民の依頼により、適当な苗字をつけてやったというのである。当時研堂は小学生ぐらいの年齢だったから「微かに記憶せり」と書いている。いろいろな苗字をつけたあと種切れになって青柳、喜撰、鷹爪、宇治といった茶の銘柄から、果ては酒井、榊原、井伊、本多といった徳川四天王の苗字をつけて「あとでおとがめはないのか」と恐る恐るたずねた町民がいたという。しかし、喜撰、鷹爪という苗字は、電話帳で見る限り、全国で1件も確認できない。研堂の父は今の郡山市に住んでいたのだが、井伊という苗字は郡山市の電話帳では確認できない。酒井、榊原、本多は郡山市でも確認できるのだが、郡山市に限らず福島県内の各地で確認でき、郡山市に無い井伊も福島県の他の地域にはある。網代や下開発町の場合は、苗字の由来が地元で今日まで語り継がれ、当時の苗字が今も確認できるのだが、研堂の父の話が事実だったという証拠は何もなく、ただのほら話だとしか思えない。

 戦後まもない昭和27年、吉川弘文館の歴史雑誌『日本歴史』の7月号に、洞富雄(ほら・とみお)氏による『江戸時代の一般庶民は果たして苗字を持たなかったか』というそのものずばりの題の論文が載った。長野県出身の洞氏は、自分の家が苗字が公称できた家柄ではないのに、先祖の墓碑に洞の字を含む戒名が刻まれていたり、幕末に祖父が江戸で武家奉公したときの書類の中に「○○様方洞様」という紙片があったりすることを子供のころから不思議に思っていた。父の死後おとずれた菩提寺の住職から江戸時代の寺の再建の際の奉加帳を二冊見せてもらったとき、そこに載った農民の名前のすべてに苗字がついており、その中には「洞」という苗字もあったことから、疑問は確信へと変わっていった。洞氏はほかに苗字が公称できない身分の人の名を集めた今の東京の氷川神社の造営奉納取立帳や富士山御師がつくった松本平南部の33ヶ村の講中の名簿でも、ほとんどの人の名が苗字つきで載っていることを挙げている。『日本歴史』誌上には、洞氏の主張を補強する記事が次々と寄せられ、今日では江戸時代の庶民に苗字が無かったということを正面切って主張する歴史学者は見かけない。 

 江戸時代の庶民にも苗字があったというと、潜伏キリシタンのマリア像のように、命を懸けて秘密にしていたのだろうと考える人が多い。しかし、現実はあっけらかんといっていいほどあちこちで名のっていたのである。苗字の公称が許されていない者がお上に出す文書の中に苗字つきで名前を書いたら、確かにただでは済まなかったろう。また、お上からくる文書に苗字が書いてあることもない。しかし、こういった場面は、そんなに日常的に接するものではなかった。そういう場面は、今日、ふだん「○沢」で通している人が「○澤」と書かなくてはいけない場合よりも少ない。今では民間の契約でも戸籍どおりに書かなくてはならないという制約があるが、戸籍の無い江戸時代にはそういう制約も無かったからである。

 東京都の小平市内にかつて存在した小川村の地に小川寺という寺があり、1686年に鋳造された梵鐘がある。寄進したのは苗字の公称ができない檀家の農民であるが、名前にはすべて苗字がついており、その苗字の大半は、今もこの地に存在している。鐘は屋外にあるものであり、当然武士の目にも触れる。そのことを農民たちが意に介さなかったのは、武士たちに、自分たちのいない所で農民が苗字を名のることをとがめる気がなかったからである。梵鐘以上に目についたものは、当時の庶民の墓である。関根達人氏の『墓石が語る江戸時代』という著書の中には、今日の福井県の江戸時代の庶民の墓について、次のような記述がある。

 一八世紀後半以降は、苗字が五~六割前後、屋号が三割前後、下の名前のみが一割弱でほぼ安定している。時期により多少の違いは見られるものの、小浜では江戸時代を通して墓石を建てた人の半数強の人が墓石に苗字を刻んでいたのである。武家のほとんどいない湊町三国でも、墓石に刻まれた名前に関しては、武家の多い城下町小浜とほぼ変わらない状況であった。以上のことから公の場で苗字を名乗ることが許されていない人々も、墓石に苗字を刻むことは社会的に黙認されていたと見てよいだろう。この世では公の場で苗字を名乗れない人も、墓石には苗字を刻むことができるとしたら、彼らは喜んで墓石を建てたであろう。墓石が普及した要因の一つとして苗字の問題は大きかったのでなかろうか。 

 江戸時代の庶民にとって、苗字を用いるかどうかは、公私の判別ができるかどうかということであった。梵鐘や墓石に苗字を刻むのは、それが私事だということが常識だったからである。古い寺に残る過去帳や寄進帳にも庶民の苗字が記してあった。出版もまた私事であった。石門心学の開祖である石田梅岩は農家に生まれた商人で、その著書である『都鄙問答』には通称を用いた「石田勘平」という著者名がはっきり記されている。越後の商家鈴木屋の主が雪国の生活を江戸の人に紹介するために書いた『北越雪譜』の表紙には、著者名が俳号を用いて「鈴木牧之」と記してある。屋号が鈴木屋だから苗字を鈴木としたのではなく、その逆である。お上を介さない民間の契約にも庶民が苗字を記すことはよくあった。

 江戸時代に苗字を名のることが既に庶民の間にまで広まっていたことは明らかなことなのだが、庶民に苗字が無かったという俗説が民間に広まったのはなぜなのだろうか? それは、それまで苗字の公称ができた人々が、誰もが苗字を大っぴらに名のれるようになったことを快く思わず、新たに大っぴらに名のれるようになった苗字を茶化したりけなしたりしようとしたためだろう。いま同じ苗字が集中している地域では、苗字が公称できていた家の人が自分たちの苗字を明治のときに分けてやったのだということが多いが、実際は昔から同じ苗字だった人の中から苗字の公称を許された人が出たということだろう。

 愛媛県の網代や石川県の下開発町のように、明治になって苗字が新しくつくられたことが確かな地域では、苗字の由来が今でも語り継がれているが、自分の由来を聞かれてすぐに答えられる人はまれである。答えられても、殿様からの褒美でついたというような伝説めいた由来が多い。ではなぜ答えられないのか? それは、その苗字が今ではもう答えることが不可能なほど昔に始まる苗字だからである。

 今では行政上は京都市内となっているものの、市街地とは山で隔てられた文字通りの山国に、むかし山国荘という荘園があった。山国荘のあった地域には、中世以来の古文書が今も家々に大量に残っている。山国荘の農民は、室町時代の14~16世紀の古文書を見る限り、ほとんどが苗字を名のっていた。山国荘の苗字は、一番新しいものでも関ヶ原以前の古文書にあるのだが、その苗字を今も地元の人々が名のっている。山国荘には苗字の公称を許された家は無いので、代々苗字を語り継いできたようだ。その中には、田中や内田といったありふれた苗字に交じって、この地域にしかない比果、今井尻といった苗字も含まれている。このようなことは、何も山国荘に限った特別なことではない。江戸時代がはじまるころまでには、苗字を名のる習慣はすでに庶民の間にまで広まっていたと見てよい。庶民の苗字は公文書には残らない。そのため、明治以前の文献に見当たらないからといって、「明治新姓」だということはできない。

  苗字を最初に名のり始めたのが、公家や武家だということは確かだが、公家や武家はそれ以前に苗字とは別に「姓」というものを持っていた。しかし、姓は次第に源平藤橘などに集約され、種類がごく少なくなったため、別に苗字というものが発生した。赤穂浪士のリーダーは正式には「大石内蔵助藤原良雄」といい、大石が苗字、藤原が姓を示している。姓が「源頼朝」「平清盛」のように「の」を伴うのに対し、苗字は「織田信長」「徳川家康」のように「の」を伴わない。こういった姓は一般庶民にもあり、万葉集などにも防人歌や東歌の作者の名前に現れている。ただ、自ら名のったものとはいえず、職業や所属(どの皇族や豪族に服属しているか)によって上から名づけられたものである。服部(はとりべ)、錦織部(にしごりべ)、鍛冶部(かじべ)、犬飼部(いぬかいべ)などは職業により、春日部(かすかべ)、長谷部(はせべ)などは所属によって名づけられたもので、古代にどれほど広まっていたのかは分からないが、古代の終焉によって跡形もなく消えたのではなく、一部は「部」が省略されて今日まで苗字として残っているものも多い。 

 今日の苗字は、庶民の苗字の多くが明治になって突然に現れたものだという俗説を裏付けるような分布をしていない。明治の初めに出された二つの太政官布告はいずれもごく簡単なもので、特定の苗字を推奨したり禁止したりした形跡も見られない。少数の種類の苗字を名のる人が人口の多くを占めていること、苗字の種類が東に少なく西に多いこと、「田んぼの中」や「真ん中の村」を意味する田中や中村とちがい、「佐藤、鈴木、高橋」といった苗字が、分布が著しく東に偏るとはいえ、きわめて数が多いことは、俗説では説明できない。また、地名に基づく苗字は、その地名のところには皆無かごく少ないが、近隣には多い。たとえば、寒河江(さがえ)という苗字は、全国の4割以上が山形県に集中し、山形県内には寒河江市があるが、山形県の電話帳に500件以上もある寒河江姓が寒河江市にはわずか2件しかない。こういう分布は沖縄を含めた全国的な傾向であり、明治になって突然現れるということは考えられない。

 
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